楽の場合(7)


 叔母さんと僕の間に流れた共有の時間は余りにも少なかった。父さんが、朔叔母さんに近付くな、と僕に諭した理由は今になればなんとなく分かる。彼女は自分の運命を正面から見据えて生きていた人だった。人が見えるからこそ医療職に付き、病態が分かるからこそ全てと戦おうとした。父さんは僕に、真っ向から逆の生き方を叩き込んでそれを良しとした。人が見えるからこそ僕は敢えて目を背けた。病態が分かるからこそ人混みが嫌いだった。幸せそうな人、幸せに気づかないまま悶々と日々を過ごしている人、そういうごく普通に存在する人達に無差別に巣くう様々な異常が、彼らの生活を激変させるであろう事を、何の抵抗もなく一つの情報として頭に入ってくる日常、無感動でいなければやってられなかった。



 だから叔母さんは僕にとって一種の奇跡だった。僕らの体質は正面から刃向かっていったって玉砕するのは目に見えていた。いつだって対峙するのは現実で、僕らの武器はふりかざした理想でしかなかったからだ。そしてやはり叔母さんのケースでも、希望は何度でも打ち砕かれたのだろう。見舞いに来た医師も言っていた。彼女は分かってしまうばかりに、未来も変えられるものと勘違いしてしまったのだ、と。未来を変えるなんて不可能だったんだ。死は逆らえない。どんなに叔母さんの目が普通の人と違っていたとしても。
 それでも諦めず向かっていった叔母さんの姿はやはり、僕にとって確かに、奇跡だったのだ。





 見舞い客が徐々に僕らに話しかけるようになってから程なくして、普段めったに自分から話しかける事のない父さんが、母さんの事覚えてるか?と聞いてきた。本当にそれは、まるで天気の話でもするかのように至って自然に出てきたものだから、僕は惚けて突っ立っていた、ように思う。
 父さんは再び僕に問うた。母さんの事、覚えてるか?
「お前の母さんは誰よりも朔の事心配していたな。あの頃は楽も同じ体質だなんて知らなかったから…本当に親身になって、朔を心配していたな。人の内部が分かってしまうなんて、あなた、それは拷問のようなものですよ。それに立ち向かうなんて、生きながらいつ終わるともしれない悪夢を見続けているようなものですよ。そんな風に言っていたな…」
 こいつの寝顔を見ていて、同じようにベッドの上で眠るように息を引き取った母さんを思い出したんだ。父さんは疲れたように大きく息を吐き出して、言った。
「良い顔をして寝ているな、朔は。幸せそうな、穏やかな表情だ」
確かに、と僕も思う。見舞い客も口々に告げていた。とても穏やかで安らかに、こっちまでほっとするような顔をして、眠り込んでいる。
「好かれていたんだな、朔は。見舞い客がこんなにも続いて来てくれる位に」
 そのまま、父さんは押し黙った。春の日差しがほのかな光を漂わせる、病室、午後。
 この時既に僕も父さんも、八島朔の人生に容赦なく巻き込まれとりつかれているなんて、微塵にも感じ取る事は出来なかった。それ程穏やかに時は過ぎていた。音もなく、しかし着実に、時は過ぎていた。