物語・黒く佇む木の肖像

4、さとりの場合

あたし女の子って嫌い。何なのこの生き物は。何でこの世に男と女しかいなくて、しかも特徴が抜きん出てアホらしいの。 一番はじめに認識したのは幼稚園の時。仲良い友達の容姿が、ほんの少しだけ他の人と違ってたのよね。ほんの少しよ、つまり個性的だったっ…

九の場合(6)

俺と星香が実に穏やかに時の流れを感受していたのとは別に、朔も又違った形で、世界を見始めていたようであった。現実として、俺には朔の世界がどう彩りを違えたのか等知る由もないのだが、意図しようがしなかろうが、変化は確実に周りに影響を与える。結果…

九の場合(5)

言ってしまえば俺にとっての過去は余り思い出して気持ちの良いものではない。幸せではなかったのかと聞かれれば鼻先で笑うだけだ。そんなの関係がない。失った物が手元にあった時への羨望は、それは眩しすぎて直視するには目が痛くて。ただそれだけだ。それ…

九の場合(4)

渋谷星香はくったくなく笑う人だった。 正しいのか分からない正義感を振りかざす母と、天真爛漫で破天荒な行動力を伴い時に最悪の行いを繰り返す弟とに挟まれ、俺はただ心の寄りどころとなる場所をひたすら求めていた。彼女の穏やかだが静かな強さすら感じる…

九の場合(3)

それにしても顔色が優れない割に、朔は毎日楽しそうに空を見上げては笑い、土を触っては喜んでいた。 通学路の途中で見つけたカマキリの絵、先生の怒った顔。様々な情報をノートに描き込んでくる。周りは「上手な絵」に喜んだ。先生ですら、本物そっくりの落…

九の場合(2)

絵は、弟にとってだけでなく、俺にとっても一種のステータスだった。家族の誰にも教えていなかったが、高校の途中から、つまり弟の「それ」が発覚してからは、俺は美術という名の絵描きグループに属するようになっていた。 何故俺たちは絵を描くのか?文字を…

3、九の場合(1)

真っ向から何かと対峙して生きる姿勢はそりゃ、どんな人間でも輝いて見えるもんなんだよ、ってのがお袋の言う所での、美徳であった。親父は親父で何も異論は無いらしい。どちらかというと俺のこの、どうでもいいや的な性格は、親父の持つ才能だったのだろう…

楽の場合(8)

日常は意図も簡単にその有り様を変える。簡単な事だ、世の中はほぼ偶然と、必然に見せかけた運命とで成り立っている。劇的な変化は予兆もなしに襲いかかる。帰宅途中の男に忍び寄るトラックの影。見たこともない目の前の女が猟奇殺人者。地球の鼓動と気まぐ…

楽の場合(7)

叔母さんと僕の間に流れた共有の時間は余りにも少なかった。父さんが、朔叔母さんに近付くな、と僕に諭した理由は今になればなんとなく分かる。彼女は自分の運命を正面から見据えて生きていた人だった。人が見えるからこそ医療職に付き、病態が分かるからこ…

楽の場合(6)

ニラサキナガルさんの登場が何かを吹っ切らせたのか、それと共に叔母さんを訪ねてくる人々に若干の変化が見られるようになった。恐る恐る病室にやってきては、僕や父さん等、その場にいる人には目もくれずに、再びこっそり帰っていく彼らだったが、徐々に僕…

楽の場合(5)

叔母さんの病室には、見舞い客が絶えなかった。 叔母さんは眠り続けている。その姿はどう見ても、まだあどけなさの残る少女以外の何者でもない。その少女をのぞき込むようにして身を乗り出し、しかし何かを言うでもなく、ただ見つめている。そして人々は帰っ…

楽の場合(4)

叔母さんはただ黙って僕の言葉を聞いていた。僕を見る彼女の眼差しは、凍てついた大気を真っ直ぐに通過する光のような、鋭い中にある不気味な静けさをたたえていた。 ふと、彼女はか細い腕をゆるりと枕の下に滑らせ、頭の重さに歪んだスケッチブックを取り出…

楽の場合(3)

叔母さんの自殺未遂とそれに伴い僕がやった事については、父さんは何も言わなかった。興味が無かった訳じゃないんだろう。僕の日常は何の変化も持たなかったし、父さんはそれだけで十分だったのかもしれない。 僕は所謂フリーターみたいな物で、ほぼ毎日コン…

楽の場合(2)

時々、僕は無音の感覚に襲われる事がある。都会の雑踏の中で、人が絡まる駅のホームで、小鳥しか鳴かないような木々の間で、突然全てが遠ざかり、膨張し、音が消え、世界には僕しかいない。動き回る外の世界は遠く、違う次元の様で、ただ一人僕だけは、自分…

楽の場合(1)

昏睡状態から目覚めた彼女は虚ろな瞳を窓の外に向けながら、多分ひらりと降りてくる枯れ葉を見ていたのだろうが、感情を込めずに、あなたは私と同じなのよ、と言った。ずっと分かってたけどね。見て見ぬふりをしていた。でもこの際だから言うけど、あなたと…

ながるの場合(6)

「ピアノを、追い越す?」 「今のながるにとっては、ピアノだけが現実だから。だからね」 作田の目は何かを探すように宙をさまよった。時折こういう動作をしては絞り出すように言葉を放つ。台詞そのものが創作された芸術のように、大事に大事に、話す。 「そ…

ながるの場合(5)

私はふと続く言葉を飲み込んだ。何を言っても駄目な事がある。伝わりようがない事がある。ピアノの目は恐怖におののいていた。人は未知のものに遭遇した際、表情に固有の醜悪さを浮き出させるらしい。次の瞬間、底知れぬ闇が私を打ちのめした。 それでも抵抗…

ながるの場合(4)

作田については私にも疑惑があった。作田と並んで歩いてる際、作田は低学年の小さい子達にも結構好かれていて、ああいう子達独特の愛情表現というか、すれ違う時からかったりおもいっきりぶん殴ったりして走り去っていく。作田は一瞬驚愕した表情を浮かべる…

ながるの場合(3)

一体いつから作田に心を許し始めたのか、定かではない。気付けば作田はそこにいた。色素の薄い顔で常にせせら笑っていた。心を許したというよりもそれが私の自然になってしまったのだ。学校の帰り道、休み時間のふとした瞬間、庭で横たわっている時間、作田…

ながるの場合(2)

私はピアノを弾いた。狂ったように引き続けた。ピアノは現実だった。どうしたってピアノからは逃れられなかった。 指をうまくタッチさせる為には手を卵型にしなければならない。うまい具合の形の時は手のひらのおはじきが微動だにしない。手の姿勢はそのまま…

ながるの場合(1)

ただ普通の顔をしてごく日常的なスピードで颯爽と道をあるいていただけなのに、しかも通学路で幼い頃から慣れ親しんだ馴染みのある道だったのに、唐突に前から寄ってきて凄い笑顔で作田は言った。 「浮かない表情してるね。何だったら勉強教えてあげるよ」 …