九の場合(3)


 それにしても顔色が優れない割に、朔は毎日楽しそうに空を見上げては笑い、土を触っては喜んでいた。
 通学路の途中で見つけたカマキリの絵、先生の怒った顔。様々な情報をノートに描き込んでくる。周りは「上手な絵」に喜んだ。先生ですら、本物そっくりの落書きに、怒るのも忘れ暫し見とれた。
「お前は絵を描いてはいけないんだよ」
真剣な態度で弟に接したところで、朔の向けるまなざしはどこまでも真っ直ぐに、俺を見据えるだけだった。
「何で?」
「お前の絵は創作じゃないだろ。だからだよ」
「創作じゃないの?」
「朔の絵は、現実なんだよ」
「現実だと、どうして描いちゃいけないの?」
弟はペンをくるくる回しながら言葉を捜してしばらく宙を睨んでいた。やがて諦めたように首を振ると、俺ににっこり微笑みかけて、言った。
「それでも僕には、僕の表現方法では、やっぱりこれが一番僕らしいと思うんだ」
「俺はそうは思わない。お前の場合、沈黙の方が正しい」
「黙ってたら何も出来ないだろ」
弟は捨てぜりふのように呟いた。だって僕は、見えているのだから。



 一度だけ、朔以外の能力者と会った事がある。八島家系列の葬儀の場だった。黒い喪服の集団が、広くもない会場を無言でひしめいていた、ただただ蒸し暑かった。
 朔がお袋の背中に顔を埋めてぴったりと張り付いていた。こら、と俺は弟の背中をつつく。朔は身動き一つせずにお袋の振動にあわせてゆっくりと揺れた。
 近くに彼がいるのに気付いたのは暫くたってからだった。蠢く世界の中でただ一人彼だけが静止していた。蝋人形のような、生命という枠組みを越えた、妖美な空気を放っていた。まさしく作りもののようだった。俺の目は吸い寄せられたまま彼の姿を捕らえて離さなかった。
「朔」
揺れながらお袋が、背中の弟に呼びかける。
「朔、あなたはそれでいいのよ、それでいいの」
八島の能力者。朔にも発現している異端の力。彼らは人の目が解析する以上の情報を処理する。脳の容量を無視する能力によりしばしば発作が起きた。成長が止まった。疎まれた。世間から怖がられた。だから八島は能力者を隠した。男女の性別を取り上げ未来の希望も何もかも奪った。…人格の形成を押し込める事により。
 彼の目は死者のそれだった。ちらと俺の顔を横切っていく視線、何も興味を示さなかった。薄い口を噤んだまま彼は、両親の後に続き扉の向こうに消えた。
 外に出ると朔は声を上げて泣いた。お袋は朔を抱きしめ優しく揺すっていた。俺は一種の怒りすら感じ始めていた。
「朔も、ああなるべきなんだ」
親父が一瞬眉を上げたが、何も言わなかった。俺は荒々しく小石を蹴った。
「何も知らないでいい、自分が見えてしまう内容も、力も、何が普通で何が異常なのかも、何も、知っちゃいけないんだ。朔はそうであるべきだった。朔はそれで初めて幸せになれるのに!」
親父はのんびりと煙草の煙を吐き出すと、俺の方を見ずに、低く呟いた。
「気付くよ」
「は?」
「教えなくてもね、いつか気付くものだよ、人はさ」
俺が睨みつけると親父は肩を竦めて見せた。
「人は気付くよ、人である事に。例え人を押さえ込んでいようともね」
知らないままでいるなんて、到底不可能なんだよ。親父は再度、煙草を口に含むとにっこり笑った。
 泣き続ける弟はお袋に引きずられ植木の影に消えた。朔はあの小さな身体でどれだけの大きさの恐怖を抱え込んでいるんだろう。同じ八島に生まれながら、何故俺は、普通なんだろう。
 やはり怒りがこみ上げてきて、抑えようともせず俺は何度も、庭の敷石を蹴り続けた。