ながるの場合(5)

 私はふと続く言葉を飲み込んだ。何を言っても駄目な事がある。伝わりようがない事がある。ピアノの目は恐怖におののいていた。人は未知のものに遭遇した際、表情に固有の醜悪さを浮き出させるらしい。次の瞬間、底知れぬ闇が私を打ちのめした。
 それでも抵抗したい時、私は沈黙を選ぶ。
「兎に角、そんな人と一緒にいるのはやめなさい。今すぐやめなさい」
 私は沈黙したまま目を伏せ、微かに頷いてみせた。



 作田は一部の人にしか目に入らないらしい。そうなると話は簡単だ。作田と並んで歩いている所をお母さんに見られたとしても、お母さんには作田が見えていない訳だから、別に気にする必要はない。問題なのは近所の誰が作田を目撃したかであるが、お母さんが作田を目撃出来ない以上、それはいらぬ心配に思われた。
 作田は常に楽しそうに歩いた。道ばたの花に話しかけ、雨が降ってきては天を仰ぎ嬉しそうに笑った。太陽を直に見つめては、目が痛いとうずくまっていた。
「あんたは一体、何なの?」
何の脈絡も無く、夕日を背にただ黙って並んで立っていた時に、私は聞いてみた。作田が何処から来て何処へ去るのかとか、何故一部の人にしか見えないのかとか、余り興味が無かった。ただその質問が私の疑問の全てだった。
 作田はくりっとした目をぱちくりさせている。
「ながるの友達だよ?」
 彼は純粋にそう思っているらしい。それ以上の答えは無かったのか、作田は続けて優しい口調で私に語った。
「最近ながる、あんまり庭に行っていないよね。庭のみんなが寂しがってるよ?」
 そう言えばそうだ。ちょくちょく庭で時間を潰していたものが、最近めっきり訪れなくなった。寒くなったからではない。作田と一緒にいるようになってからか。
「みんな、いつかピアノを追い越したいと、そればっかり考えているのだよ。ながるがピアノばかり好きだから、みんな少し悲しいと、思っているのだよ」