楽の場合(4)


 叔母さんはただ黙って僕の言葉を聞いていた。僕を見る彼女の眼差しは、凍てついた大気を真っ直ぐに通過する光のような、鋭い中にある不気味な静けさをたたえていた。
 ふと、彼女はか細い腕をゆるりと枕の下に滑らせ、頭の重さに歪んだスケッチブックを取り出した。
「私はこんなにも、多くの事をやってしまった」
 表紙を開く。紙は時代を経て、端の部分が黄色く変色している。そこに描かれた少女はまるで生きているかのように伸びやかに微笑んでいる。途端僕の中に流れてくる意識。少女が生まれた時、少女の名前、喜び、希望、それを上回る混沌。彼女を構成する組織の詳細、波打つ血管。
 僕は驚いて後退りした。しかし絵からは目がそらせない。こんな事、初めてだ。こんな、絵から生きている人の鼓動を感じるなんて、未だかつて、なかった。
「こんなにも多くの、無駄な事ばかり」
 紙をめくる。今度は穏やかに微笑む老人の姿。次のページにも、やはり楽しそうな彼の、別な時の絵。しかし人間の内部まで細かく見えてしまう僕には、彼の心臓の状態がこの一瞬のうちに劣悪化しているのを感じた。
 僕は多分、驚愕した表情のまま、叔母さんの方に顔を向けた。彼女は至って穏やかに頷いていた。
「私達は、生きてるものの情報が手に取るように分かってしまう。精神の状態も、内臓の状態も。そうよね」
 彼女は、それを全て紙面にコピーしたのだ。絵を描くときは、組織や細胞ばかりを描いていた僕にとっては斬新だった。いや、違う。コピーではないかな。
 めくる度でてくる人々の穏やかで、幸せそうな表情。叔母さんの意図する所は、そうか、そういう事か。
 彼女の絵は、祈りだ。絵にでてくる人々が、絵のような穏やかな生を送ってほしいという、祈りだ。
「どんなに幸せそうな絵を描いても、何しても、だめだった。その幸せな状況は、長くは続かなかった。所詮私の絵はその人のコピーでしかなかったから。皆、死んでいってしまった。あんたの言う通りだわ。私達は、真実しか描く事が出来ない」
もう、疲れた。叔母さんは長く息をはいて、ゆっくり目を瞑った。微かに口が開いている。
 生暖かい風が紙を運んで、僕は現れたスケッチブック最後のページに目を落とした。
 その絵だけは、他とは趣旨が違っていた。何もない空間にどんよりと佇む美しい木だ。この絵はカラーだった。黄土色にさらに白を混ぜたような、そんな柔肌の。これは百日紅(さるすべり)だ。
「叔母さん、この絵は?」
僕の問いは、微かに差し込む赤い日の光に遮られ、叔母さんの口は力無く半ば開いたまま、やがてその沈黙に永遠に、身を任せてしまっていた。