ながるの場合(6)


「ピアノを、追い越す?」
「今のながるにとっては、ピアノだけが現実だから。だからね」
 作田の目は何かを探すように宙をさまよった。時折こういう動作をしては絞り出すように言葉を放つ。台詞そのものが創作された芸術のように、大事に大事に、話す。
「そう。もっと現実に色々な物を、見てほしいんだ、ねぇ」
 作田は節目がちに顔をふせ、しばらく押し黙っていたが、やがて恐る恐る手をあげ私の頭を撫でた。優しい手だった。一瞬目の上に、木漏れ日のような小さいけれども強い光をを見た気がして、錯覚にしては余りに鮮明によぎったものだから、思わず作田の手を力一杯振り払った。そしてそのまま家に駆けて帰った。
 家の中では既に日が沈み薄暗い。お母さんが立ちはだかって私に告げた。ピアノを練習しなさい。有無を言わさぬ迫力で。ピアノがピアノを指さしピアノをしろと言う。
 私はピアノに向かった。鍵盤の冷たさはひんやりと両手を伝って私に溶けた。そうして神経はつながった。作田が何を言いどういう顔をしていたか等関係がなくなった。何もかも忘れ今はただピアノのためにだけ生きている。思えば確かに私の現実はピアノで出来ていた、その他の諸々は時空間すら共有せず遠くで渦巻いていた。後少し違えば作田にすら手を伸ばし自ら触ろうとする勇気も持てたのに。
 何もかも無表情で否定して喪失感すら感じなかったあの頃。失って初めて身をこがされんばかりの想いを味わうにはまだ幼すぎた、幼すぎていた。