3、九の場合(1)


 真っ向から何かと対峙して生きる姿勢はそりゃ、どんな人間でも輝いて見えるもんなんだよ、ってのがお袋の言う所での、美徳であった。親父は親父で何も異論は無いらしい。どちらかというと俺のこの、どうでもいいや的な性格は、親父の持つ才能だったのだろう。お袋は良く俺に向かって鼻息を荒くした。親父は親父で楽しそうに眺めているだけだ。
「兄さんはある意味、正しいと思うよ」
唯一の理解者たる弟は言う。
「猛突進型だと周りが見えなくなる。つまりは先駆的行動力には知識が伴わないんだ。その点兄さんタイプは動かない分物事を冷静に見極められるんだろ」
「見極めただけで何も出来ないんじゃ意味無いけどな」
「何も出来ないんじゃない。しないんだ」
弟は力無く首を振る。
「仕方のない事だよ。物事には常に二面性がある。長所と短所は共存せざるを得ないんだ」
「ま」
俺も悲しげに頷きながら言った。
「どっちにしろ俺に不足してる行動力も、お前やお袋に有り余っている行動力も、世間的に見りゃ付録みたいなもんなんだ。あろうがなかろうが関係ないと思うね」



 人とは!と絶叫にも似た論説を始めるのがお袋は好きだった。誰にともなしに好き勝手に人生論を語り出す。俺には正しいか間違えているかなんてのは、分かりようがない。それにしてもお袋は、何処に行こうがその思想を持ってきては、語った。人とは!人とは!
 そんなお袋がこの家に嫁いできた訳で、古くから伝わる家の伝統なんてのはこの頭の固い女には通用しない。子育てに関して特にそうだ。じいさん達がいかに静かに語りかけようとも、お袋は小さな体を怒りで震わせながら反論した。そこでだって言いだしは同じだ。人とは、おじいちゃん、人とはね!
「あたしはあたしで、子供達の事は伸び伸びと、好き勝手に育てさせていただきます。大体意味不明な現象突きつけてそれで縛り付けるなんて、時代錯誤も良い所だわ。今からは個性の時代なんですよ!?移り変わる歴史に対応していかないと、八島の家はいつまでも出遅れてしまいます!」


 出遅れるのかどうかは置いておいて、後々お袋の言う「それ」の片鱗すら見えない時でも、弟の姿は明らかに異質に写っていた。体の成長が著しく遅い、肌が白い。白すぎる。幼い頃からだ。健全に成長していく俺とは確実に、違った道を弟はたどった。


 それでも根気よくお袋は、弟に自分をたたき込んで行った。性格上では親父の遺伝子を色濃く受け継いだ俺なんかよりも、お袋は弟の方に理想という形の期待を寄せたのだろう。こうしてわが家には、幼いながらも洗練されたお袋第二号が誕生した。第二号のほうがよっぽど天真爛漫で質が悪かった。
「あんたはせっかくあんたに生まれてきたんだから、無碍に才能を埋没させたまま生涯を送るなんてそんな馬鹿げた話なんてないわ。これはチャンスなのよ」
弟の「それ」が発覚した後も、お袋は弟に繰り返し語った。人として生きるのよ、あんたは、そうであるように生まれてきたのだから。

 それでも俺は、多分誰も知らないお袋の一面も知っている。多分お袋なりに必死だったのだろう。幸せを見つける方法を教えるまでは親の責任、と良く俺に語っていた。しかし目に見えないものはそれだけ空気にとけ込んでしまっていて、分からない、どうにも分からない所にいる。
「ねぇ、九」
お袋は珍しく一人で酒を飲んでいた。俺が高校生の時だ。
「あんたは、大丈夫よね。大丈夫なのよね?」
あんたには、あの子に見えるものは見えないわよね?お袋は明瞭に発音した。俺は答えなかった。一時期は、弟の目に映る様々な情報を羨ましく思った事もあった。お袋はこう考えていたのではないか。人が見えないものが見える人は、その分、普通の人が得たいと願う希望を見落としやすく出来ている。情報量が余りに多いばかりに。だから不安にとりつかれたのだろう。酒をあおって気を紛らわそうとしたのだろう。


 八島の家に伝わる方法なら簡単だった。始めから人と接するのを極力避けて一生を終えさせる。大人の傲慢だが子への負力も最小限に抑えられる。



 しかしお袋はそれをしなかった。あえて弟を弟のままに受け入れた。それは果たして弟の為になるのか。答えはなかった。ただ闇雲に前に進ませていくだけだった。
「朔」
 お袋は泣いていた。泣きながら弟の名を何度も呼んだ。朔。何故その小さな体でそんな大きなものを受け止めなければならないの?唇を噛みしめ目を大きく見開いてただはらはらと泣いていた。俺ですら、思わず目を背けたくなる、そんな痛々しい表情だった。



 弟は音もたてずに眠りこけていた。虫も鳴かない、静かな夜だった。