楽の場合(8)


 日常は意図も簡単にその有り様を変える。簡単な事だ、世の中はほぼ偶然と、必然に見せかけた運命とで成り立っている。劇的な変化は予兆もなしに襲いかかる。帰宅途中の男に忍び寄るトラックの影。見たこともない目の前の女が猟奇殺人者。地球の鼓動と気まぐれに発生する巨大地震インドネシア近辺を襲ったツナミ。


 僕がニラサキナガルさんを目撃したのは、雲一つ無い夕暮れ、赤い線が地表から高く空に向けられていた頃だった。
 病院の空気は常に微睡んでいる。点滴を打った老婆がスロープを掴んでゆっくり歩いている。僕は自販で買ったパックの牛乳を力一杯吸い込みながら、そっと叔母さんの部屋のドアを引いた。


 その時彼女の後ろ姿が、真っ赤に染まった空を背景に、毒々しい影を伸ばして硬直しているのが目に入った。カーテンが揺らめいている。僕は息を殺した。彼女が振り返った。黒い髪が音もなく、空を切った。それは叔母さんではなかった。一瞬出かけた固有名詞が、虚空に拡散した。
「なぜ?」
 不思議なほど落ち着いた声で彼女は誰にともなしに、つぶやいた。少女の体は完全に、布団に乗り上がっている。その下に叔母さん。少女は叔母さんの上に四つん這いになっていた。その姿勢のまま、彼女は冷たい視線を僕に向けていた。
「この人は私に、会わせてくれるって言った。作田に会わせるって約束した。約束したのよ。なのになぜ、何時までも眠り込んでいるの?」
ナガルさんの様子はおかしかった。僕の目の前を流れる無数の星。彼女の頭の中は混乱している。無数のニューロンが活発に、無秩序に、行き交っているのが見えた。僕はふいに目眩に襲われて、よろめいて壁によりかかった。病室が一気に黄色く変色していくのを、どこか遠くの方から眺めていた。
「この人は、眠り続けてはいけないのよ。だって約束したんだもの、私。作田に会わせてくれるって、この人言ったんだもの。言ったんだもの!私に!!」



 …作田?



 一瞬、僕の脳裏に、確信に近い事実が浮かび上がって、そして騒音にかき消された。騒音?違う。
 病室に入ってきた父さんと看護師さんが、慌ただしい音をたててナガルさんに突進していくのが見えた。かなきり声にも似た少女の叫び。眼鏡をずり落としたまま父さんが一瞬、僕を振り返る。


 …なぜ。




 何故叔母さんは、こんな面倒臭い仕事を僕に押しつけたのだろうか。フラッシュバックのように、叔母さんの表情と声が飛び込み、かけ去って行く。



 スケッチブックに残された、美しい百日紅の木。



 あの時確かに僕は感じたのだ。他の、残された肖像画の人々と同様に。今はない、鼓動を止めた、美しい肌を持つ木の、在りし日の息吹を、確かに、色鮮やかに鮮明に、感じていたのだ。