楽の場合(5)


 叔母さんの病室には、見舞い客が絶えなかった。
 叔母さんは眠り続けている。その姿はどう見ても、まだあどけなさの残る少女以外の何者でもない。その少女をのぞき込むようにして身を乗り出し、しかし何かを言うでもなく、ただ見つめている。そして人々は帰っていく。「又来ます」と言い残して。
 様々な人々がやってきた。僕が病室にいる限り在る時間の中でも、深いしわの刻まれた老婦人、まだ若い夫婦、幼い子供の手を引いた会社員風の男性、とにかく、何処で知り得たのか分からないが、僕にとっては全くの他人だらけだった。友達は作るな、と教育されていた僕にとって、僕の親族だけが世界の全てだったから、妙に世界が浸食されているような、妙な気分になったものだ。
 彼らは無言でやって来て無言で去っていく。白い病室に咲き乱れた色とりどりの花。中央で眠り続ける叔母。
「こんにちは」
 僕がコップに水を注いでいる時、若い女性が話かけてきた。
 髪の長い人だ。僕と同い年位のお姉さんだ。僕は目を見ないようにして、微かに会釈した。女の人って苦手だ。
「この前もいたわよね、君。偉いわね。ずっとお世話しているの?学校はどうしたの?」
彼女の言う学校とはせいぜい中学位のもんだろう。小学生だと思う人もいる。僕が成人しているなんて誰も、露にも思わないのだ。履歴書を持っていった時の、バイト先の店長の好奇の瞳。
「君、ほんとに20歳?」
僕は遠くを見たまま適当にうなずく。それは僕の日常の一こまに過ぎない。
「学校は、大丈夫です」
適当に答えた。適当が一番良い。馬鹿正直に何もかも、はなすものではない。
「私、朔さんの好きなイチジクを持ってきたのだけど、未だ眠り続けておられるのね。残念だわ」
彼女は傍らの机に、何か袋に入ったものを置いた。瞬間何か違和感を感じた僕は、しかし違和感の正体を見極めるのは不可能だし、女性の後ろ姿をほうけたようにただ見つめた。
 病的な程華奢な人だった。スカートの中から、ほっそりとした足がすらりと伸びていた。
「私、大学の帰りなのよ。最近講義が長引くから、うまく時間作れないのだけど、出来るだけ又来るわ。君、朔さんが目を覚まされたら、私に教えてくれないかしら?パソコンの方のメアド、置いておくから」
 早口でまくし立てると彼女は、大きい手持ち鞄からノートを取り出し、引きちぎった紙に記号のようなものを書き写すと、僕に押しつけた。そしてそのまま、長い髪を揺らしながら出ていってしまった。
 
 叔母さんは音もなく眠っている。
 微かな日の光でも、ほんのり暖かな病室。冬を押し退け春が訪れようとしていた。
「イチジクは…」
 遠くの方に机を感じつつ、僕は敢えて見ようとせずに、ぼんやり考える。イチジクは、秋の果物ではなかったろうか。ぼんやり、霞んで、僕はひっそり、考える。イチジクの事。さっきの女の子の長い髪。綺麗な後ろ姿。
僕は彼女が置いていった紙に目を落とした。パソコンは父さんが持っている位で使った事はない。メールというものも、やった事がない。
 メモの中ではカタカナで、「ニラサキ ナガル」と、丁寧な文字で、彼女の名を告げていた。