昔をおもふ


 私が生まれ育った家は今から思うにもの凄く裕福だった。夏に二度の旅行は当たり前。しかもその全てが由緒ゆかしき高級旅館に泊まる。私にとって旅とは移りゆく風景と旅館と付随する温泉。幼心にもそのお嬢ちゃん嗜好が確実に形成されてしまった。




 老舗旅館は映画音楽みたいなものだ。風景に彩る様々な物語をそのまま表現した一種の芸術だ。泊まる事そのものよりも、旅という主演を引き立てる役割を担う。その意味でも人にとって意外にも重要な位置にいる旅館。そんな旅館が大好きだった。そんな旅行が大好きだった。それを旅だと思い大人になった。




 最近やっと気付いたのだ。



 旅を物語るなんて。旅に言葉を当てはめようとするなんて。錯覚もいい所だった。




 自ら足を踏みしめずに、そのゆるやかに流れる時に身を任せずして、一体何に心を奪われていたんだろう。言葉にならないものに取り付かれる感覚無しに何を見いだしたのだろう。



 ひたすら続く道。湧き出る泉に喉を潤す。ただ旅人の乾きを癒す為だけに用意された小屋。ただ旅人の疲れを戻すためだけに流れる、薄めずには入れない源泉。




 人の手により無理矢理語らされる事のない、元の形のままのあれこれ。





 私は旅人としてとても間違えていたよ。



 本来の旅人の目で見たら。旅館の役割も果たしている天命も、少し違った形を取ってきそうなのです。