剣岳・点の記

携帯だと正確な剣の字が出ない…



 昔、奈良位の時代の修験者達は、山に神と仏を見いだし信仰心を胸に、険しければ険しい程こぞって山を目指したそうです。赤石や飛騨等日本アルプス級の山は山岳信仰にはもってこいだったでしょうね。最も、山岳信仰は純粋な修験者達の修行だったものが、時代の流れと共に大衆化し、やがて金儲けの為山岳信仰を広める藩が現れたり、本来ならば全ての山に神が宿る筈を聖なる山と魔の山に分けそのコントラストにより商品価値を上げる作戦を取り始めたのです。



 剣は立山信仰の中でも魔の山、登ってはならない山として恐れられ、実際人類未踏の山として名を馳せていた。そんな険しい山に明治の測量官が挑戦し、剣岳に三角点を置きに行く、という話です。これはかなりノンフィクションで、測量官柴崎芳太郎も宇治長次郎も皆実在の人物で、実際長次郎さんが登った雪渓は長次郎谷と呼ばれています。まだ山道が整備されていない時代、今はある鎖も梯子もなく、今では通常ルートとして使用されているコースなんか一切歯が立たない状況。剣はこの前遠目に私も見ましたが、鋭い岩が天に突き刺さるように佇んでいる、見るからに来る人を拒んでいる山でした。



 夏は岩山になってしまい登れない。立山に秋はない。夏が終わるとすぐ雪が降る。冬は雪山で登るなんて状況ではない。春は雪崩で登れない。



 登るタイミングは限られていた。雪崩は終わる頃。ただし岩がまだむき出しにはならない位の気候。つまり真夏より手前、大きく残る雪渓を山道として登り、頂上まで達する。




 人として、初めて剣岳の頂上に立ったと思った時、彼らはそこに遙か昔の、多分奈良時代位の杖と剣が奉納されているのを発見するのです。




 かつて修行僧が目指した山々の頂点は、やがて大衆化した宗教を媒体に人々に浸透し、時代を更に経て、山岳会と言う名の趣味の人々が山を歩き始めるようになる。それが時代の流れというものです。最近では若い登山者はめっきりと減り、山で出会うのは中高年以上の人ばかり。若い世代の山離れもやはり、時代の流れでしょうか。




 それでも苦難に果敢に挑む姿勢、その先に得られる風景、それらを望む人々の群は形を変えようとも、目的を違えようとも、眼下に同じ風景が広がる以上、見果てぬ夢は絶える事なく、明日も誰かを魅了して止まないのです。