パンズ・ラビリンス

映画館には怖くて行けそうもないと思い本で読んだがやはり怖かった。寧ろ痛そうだった。でもDVDで出たら絶対観よう。これは完全に映像美だ。



 ファンタジーという分類は最近出来たものだろうか。その起源は遡れば童話、御伽噺。各地域に根付いた夢物語だ。日本でもそうだけど、昔話は大抵不思議で夢があり、そして共通するのは残酷さ。山奥に潜む子供を食べてしまう鬼や妖怪、西洋でも無論存在している。


 夢物語には常に残酷さが滲んでいた。現実は至って残酷だったのだ。現実に添う形で夢はあくまでも現実逃避の一環だったのかもしれない。それ以上に、生きる知恵なのかもしれない。マッチ売りの少女然り。人魚姫などアンデルセン童話が残酷なのも、決して平安とは呼べない時代の中を、確かに人々は生きたからなのではないか。


 パンズ・ラビリンスでは、この世界に生きた少女の幻想が、完全に現実と分離する形で描かれる。彼女は確かに現実の世界を生きた。そして幻想の世界にも足を踏み入れた。最初から最後まで、彼女にもたらされたものは、想像というクッションが無ければ目を背けたくなる程の、暗黒時代の産物であった。
 この話はファンタジー一言では示せない。子供一人が生きるにはファンタジーにせざるを得ない世界も確かに存在するのかもしれない。少なくともこの話の結末は、そうであってほしいと願う一方で、ただ懸命に正しいと思う道を探した無力な女の子の、やっと魂が安静を得るまでの長い道のりを刻々と描いているに過ぎないような、そんな救いの無さも感じている。やがて世界は救われる。そんな歴史を知っているからこそ、この女の子のように、現実にあらがい逃れきれなかった人々が大勢、静かに大地に横たわって行ったのだろうと容易に想像出来るのである。



 現実と幻想は交差しない。唯一交差した時、それは現実の不条理さを最も集約した形となって、幻想の物語も終了する。


 ファンタジーとはもともと、人にとって何を意味していたのか。



 もしかしたら、その時代の傷跡、最も心に残ってしまった悲劇だったのではないか。逃れきれず降り懸かってきた災難に、直面した人々、その人々を救えなかった残された誰かの、悲しい記憶なのではないか。


 少なくとも、現実は現実のみでは何も語らない。現実のみでは生きてはいけない。現実は幻想とともにあり、幻想こそが時代を越え、後世に悲劇を語るのだと、思う。