山が好きだ

 どちらかというと私は軟弱な方で、遙か昔の世界ではとっくに淘汰されている存在だというのは分かっている。厳しい自然をそこに住む人々を、美しいと思うのは何事につきその土地について無知だからだ。しかしこの爽快な気持ちは何だろう。
 田舎やら自然やらに触れて開放感を味わえるのは、この時間がいつか終わるのを知っているからだろうか。だけど、旅の合間のひとときの触れ合いに、これから続く既に身にしみた現実を耐え抜くだけの余裕を見いだすのがほとんど不可能である事も、繰り返される日常と非日常の中で染みのように体に刻まれ取り払えなくなっている。大人になる過程で十分諦めを学んだ。自然は癒しを与えるでも安らぎを放つでもなく、またいつか帰る場所を提供するでもない。


 すべての音を吸収する雪化粧の山間の朝の声、つんと張りつめた冷気をたたえる居間の仄かな光、それらは初めて目にした光景、しかし確かに知っている。この体、このまわりの空気、今この瞬間生きているものすべて、いつか、どこかの時代で、この風景に全身を抱かれていた。確かに、刻印のように刻まれた、生命とは呼べないような記憶が、細胞の一つ一つに涌きだして、確かに私は知っている。夜の帳が降りる頃、すべてが凍りつき、やがて朝を迎えると。


 自然の中で得られるものは、癒しとか現実逃避とかでもなく、人はもともとドウブツだったのだという意味のない再確認でもなく、多分、もっと超越した記憶なのではないかと、時々思う。この、長い長い地球の歴史のどのページにも刻まれていないような、ヒトの生み出した構造物が風景を占めてしまった土地ばかりを見る生活の中では。